Ukikusa’s blog

FIREして退職。のんびりライフの日常

だれにも後悔していることはある。とくに人に対して悪いことをしたときは、良いことをしてあげたことよりもずっと長く、深く心を苛むことがある。よく返済されていない借金は、貸した側より借りた側がずっと覚えていて、良心の呵責に苦しめられるという。

 

 自分にもたくさん苦い後悔があるが、そのひとつ。もう半世紀も前のこと。通学路に何の変哲もないうどんや(もしくはめしや)があった。その店は出前も商いの中心で、若い女性(たぶん中学校を出たばかり)が雇われた。彼女は器用に片手で自転車のハンドルを操作し、片手で岡持を持って忙しく、しかしなんとなく楽しそうに出前のために走り回っていた。50年前ならありふれた光景だったろう。その隣の床屋も四国などから中卒の見習いを採用して、のれん分けするまで一人前の理髪師に育てていた。

 

 たぶんだが、そのお店の名前はかめやといったと思う。そしてその女性はほんとにおかめに似ていた。自分たちがきどもがその女性をはやしたてたり、直接からかったりした記憶はない。だが私はその女性をばかにしていた。まだ小学生高学年のこどもが、地方から出てきて一生懸命、そしてなぜか楽しそうに出前をするその女性をばかにしていた。決して美貌と言えない、いかにも田舎から出てきましたという風貌の女性を。こう書いていても後悔の念で胸が痛む。

 

 その後何年もたち、成人した時ふと思い出して、その女性はまだその店で働いているのか、仲間内で話題になったことがある。ひとりがまだ出前しているよ、そのまんまだよ、などというのを、みんなで笑って、すぐ忘れ去った。女性は、何十年も小さなめしやで出前持ちを、彼女なりに生き生きとしていただろう。

 

 あなたはその後幸せにお過ごしでしょうか?私は今、自分への後悔と非難をこめて、あなたから学ぼうとしています。私は小心者、いわゆる悪事などしたことはない。しかし、自分の傲慢さ、周りの人たちへの無関心、ときに冷淡な態度や言動が、あとで自分をここまで苦しめることを知りました。自分がとった良い行いへの満足感よりもずっとずっと。いまはせめてあなたが平穏に、穏やかに暮らしていらっしゃることを祈るばかりです。

老人施設や病院にジャズってどうなの?

状況にふさわしい音楽とは

 

 青森に住んでいたころ。年老いた母がいて、以前はショートステイでお世話になっていた施設がある。広くて清潔で、スタッフの皆さんはものすごく親切で思いやりのある方たちだった。その後、遠距離の引っ越しで別の町の施設に入り、コロナのあと在宅に切り替えていっしょにすごすことになったのだが、今日はその話ではない。

 そこでは小さかったがはっきり聞こえる音量でジャズがかかっていた。スタッフの方は二十代から五十代、男女混じって働いていらしたが、特に音楽の好みにうるさそうではない、ごく平凡な働き者、という印象の方たちだ。入居者やデイケアの利用者たちはもちろん七十代以上に見えた。そんな施設でなぜジャズなんだろうか。老人たちがブルーノートの音色を聞いて心安らいだりするものだろうか。

 今東海に住んで、喘息持ちの自分も定期的にとあるクリニックに行く。大きな窓と2階の天井まで吹き抜けがあるモダンな建物、美しい焼き物のコレクションが目に優しく、待合室のコーヒーは毎回自動で豆からひいてくれる本格的な香りを漂わせている。でも、だ。でもここでもジャズがずっとかかっている。喘息や熱が出ていたり、慢性の糖尿や腎臓、心臓病に悩む患者たちの中で、待っている時間、コルトレーンで和まされる人がどれほどいるのだろう。

 私は音楽のように、そこにいる限り避けることができないものに、このような無神経さが本当に嫌いだ。どうしてふつうのクラシックとか、イージーリスニングとか、より多くの人が好むであろう音楽、というより、嫌いな人が少ない音楽をBGMに選べないのか?それほどジャズが日本に浸透しているなら、身近なカフェなどで耳にする機会が少ないように感じるのはなぜか?老人のための施設なら、どうして童謡・唱歌昭和歌謡などを小さな音で流してあげられないのか?

 私自身ロックやブルース、カントリーやポップスで育った世代であり、ジャズ喫茶に入り浸ったこともある。ジャズが悪いといっているのでは決してない。都会のビジネスホテルの受付なら、ジャズがふさわしいところもたくさんあろう。私が思うのは、利用している老人たち、病人たちなど主役の人たちに対して配慮することなく、美しい建物や調度、そしたらやっぱジャズだな、と勝手に見た目(音楽は見た目じゃないが)で無神経に考える人たちの神経がどうなっているのか、ということなのだ。

 もういちど居住したり、利用している人たちの表情をみてほしい。その世代と背景を考え、その方たちがジャズを聴いてどう感じているかを想像したり、せめてアンケートをとったりしてほしい。すくなくとも私は上にあげた施設では、イライラしたり不快感を感じた(し、今も感じている)。

小さな親切をつづけた郵便配達夫の物語に感動

今日は北野武剛力彩芽らが出演する「奇跡体験!アンビリーバボー」で郵便局員へのサプライズというコーナーがあった。ストーリーは以下の通りだが、
https://www.fujitv.co.jp/unb/contents/190704_3.html
実際見ていて涙が止まらなかった。主人公はごく普通の郵便配達夫で、中流以上に見える家庭に35年間郵便を届け続けるだけのことだが、この人がする小さな親切が大きな違いを生む。彼は何も求めず、自分がどう扱われるかも気にせず、ごく小さな親切を全く変わらず続けるのだ。35年間の郵便配達の仕事を終えようとした日、待ちに人々が彼に感謝を表すべくサプライズのパーティーを企画した。彼は郵便配達を引退したが、コミュニティーの愛される友人として当たり前の毎日を送っている。
 私たちは、つまらない日常の起こってもいない、起こりそうにもないことを想像して、不愉快になり、ゆううつになったりしてします。特に年を取ると、これから起こる楽しそうなことが少なくなるだけで、過去の不愉快な出来事の反芻や増幅して、他人に対しての親切を惜しみ、壁を作り、地域の「家族」を作るのを拒否してしまう。
 このグラハムという郵便配達夫の生き方は我々(少なくとも私)とは対照的に見える。簡単に言ってしまってできることではないけれど、当たり前の日常にすこしだけ小さな親切をつけ加え、見返りを求めない、そんな生き方を続けていけたらと思う。それが最後まで充実した幸せな人生を送る秘訣に違いない、そんな風に考えさせてくれる番組だった。

最近「~しなさい」がつく書名の本が不愉快なの。。。

さいきん「~しなさい」といういい方がついた書名をよく見かけるが、ほんとにいやだ。吐き気がする。私たちが他人に対して「~しなさい」といういい方ができる根拠は何だろうか?人は自分と同じ人生を歩んでいるのだろうか?経済力、健康、特技、趣味、ひとりひとり似た部分があり、違う部分がある。
 大切なことは人に似た部分を見出し、あるいは共感を求め、しかし違うところも尊重し、尊重までできなくても、違いを認めることである。「立ち読みしなさい」「えこひいきしなさい」などほっといてほしい。自分が上であることを誇示し、人を見くだし、アドバイスをしたがり、その人間がほんとは何をして、何ものなのか。このような貧困な精神がほんとにいやだ。
 しかもチラ見してみると、根拠となる十分なデータも示さなかったり、あるいは曲解したりしている。もちろん、このような書名は出版社が主導となってつけたものだろう。著者の意図とは異なっているのかもしれない。
 それでも出版社の意図を受け入れているのだし、「著者」として表示されている以上、署名も含めて書き手の責任であることはあきらか。せめて、「~しよう」(「~しませんか」のほうが好きだが)、「~の提案」「私は~してみた」のようなタイトルにならないものだろうか。ただやかましく、口汚く、無責任にとりあえず言いたいことを言ってみました、そのような書き散らし、いいチラシがいまのネット時代に合っているのかも。

北の日本ではいまが一番気持ちがいい季節です。27度というとちょっと熱いような印象がありますが、むしむししないのが北日本のいいところ。ヨーロッパの夏と似てますよね。

町にもう少し花があればなぁ。冬の雪がすごいので、雪対策の世話をしてやるのがたいへんなのかな。町をあるいてると、昔はきっといい家だったのかな、ていねいな門構えだなと思わせる旧家もあるけれど、豪商を思わせる豪邸でも、今は空き家になっているものがたくさん。

いつか都会に住みたいな。来年は都会か、郊外に移るつもり。旅だったら、さびれた街の風景も旅愁にしてしまえるけど。。。いなかでもないので、街中はただ人が住めるというだけ。でもただ5分車を走らせると、息をのむ田畑や清流や水鳥のすがたが楽しめます。結局、美しいものも、楽しさも、幸せも、自分の中に、気づきの中にある、と反省しました。

また月曜日がめぐってくる。。。

 昨日は日曜日でもこの地方で英語教育にかかわっているひとたちとの談話会に出席した。ネイティブスピーカーの人がたくさんいて、逆に日本人はぽつぽつ。用事で出たり入ったりしてたが、後半の小さいグループでの話し合いに楽しく参加。

 今日は仕事で大事な提案書を出す日(ほんとの締め切りは先週の木曜日だった、とほほ)だが、何度も書き直しを命じられてようやくネットで提出。最近コンジョがなくなってきて、チェックされたところを丁寧に書き直さなくなった。出せばいいやというわけではないが、今回の提案書は自分のフィールドではなく、今一つ見通せないところがつらい。

 老母が施設に行くのを見送ったが、いつもだったら昼食や夕食を手伝いに施設までいくのだが、今日は夕方から会議があっていくことができず。。。思いが残ってしまった。明日は昼も夜も行く予定。少しでも恩返しして、というか、やはり母親への執着だと思う。

 仏教では執着を捨てるようにいうが、この母親への執着だけは自分でも許すことにしている。すべての執着が悪いわけではない。誰にも迷惑をかけず、喜んでくれる人がいる、それなら執着はゆるされる。ただ執着やその時々の惑い、思いの強さに気づいて感情が穏やかになればいい。

 最近は腹が立たなくなった。ただ空しく感じることもある。それもすべて受け入れて北国は駆け足で冬が来る。。。

10月も終わりの金曜日、なんだかだと忙しかったが、無事に乗り切る!母を世話してくださる施設の皆さん、病院の皆さん、皆さんに感謝。これまでの腎臓専門の研究、高度医療病院から総合病院に変わることになりましたが、ここまで母を良くして頂いてとても感謝。でもやさしくしてくださった看護師さんから離れるのは少し寂しいような気もします。

 エレベーターも無事に治り、母を施設から引き取ることができた。とてもうれしいです。いつもかわいらしくしてくれるお母さん、感謝しています。

 仲良くしている職場の友人の友人、イギリス人の人と出会って話した。とても興味深い話をしてくれた。日本語や日本文化にも深い知識をもっていらして、いい出会いができました。またお会いして今度は食事でもごいっしょに。。。

 最近いろんなことを考えて、考えすぎてちょっと疲れ気味かも。でも考えをやめようとするのはむだ。今を素直に受け入れて、悩むときは悩み、喜ぶときは喜び、寂しいときは寂しがる。ただその時々の気持ちに気づくことだけは忘れないように。

 明日は土曜日だけど、ヘルパーさんに来てもらえるので少し職場に出て仕事をしよう。。。明日は明日だ。